続・未来につなぐ家-住み継がれる愛着のある家

住まいのかたち | 2009.8.12

2007年に政府から打ち出された「200年住宅ビジョン」に基づき、「長期優良住宅の普及の促進に関する法律」がこの6月4日に施行されました。それにちなみ、200年前の住宅と、200年後の住宅を考えてみようというコラム「未来につなぐ家」を無印良品の家メールニュースで配信したところ、「そんなに長持ちする必要があるの?」というご意見から、「やっとそういう時代になったのね。」というものまで、さまざまなご意見投稿をいただきました。
どのご意見もあらためて「永く住める家」について考えさせられ、大変参考になりました。ありがとうございました。

具体的には、メンテナンス性や素材の耐久性、可変性などの物理的な疑問や、「文化」や「様式」がなければ後世に残る住宅にはならない、という深いご意見もありました。
あのコラムで投げかけたかったことは、物理的な耐久性や快適性は”住み継がれる家”であるための最低限の条件であって、それ以上にもっといろいろな要件が揃わないと”未来につなぐ家”は実現しないのでは?ということでした。

いろいろな要件とは、中古住宅の評価ルールや、返済に人生をかけなくても良いローン制度などの法的な問題であったり、現代の設備に頼らずに(例えばエアコンが200年後に残っているとは限りません)風や日差しを利用する環境共生であったり、また普遍的なデザイン(「様式」のなくなった今の日本の家にとってたいへん難しい問題です)であったりします。
これらはどれもとても重要な課題で、また機会があれば詳しく考察していきたいと思いますが、今回は最も精神的かつ重要な要素の一つである、”家に対する愛着”について考えたいと思います。

ところで、今回のサブタイトル「A House Is Not A Home」は、バートバカラック作曲のジャズスタンダードの曲タイトルです。「おやすみのキスをしてくれるあなたのいないこの「house」はもはや「home」じゃない」といった内容の歌詞で、「house」がかつてのように「home」であって欲しいと切々と歌う名曲です。
人の住んでいない家は、どんなに立派でもそれはただの「家屋」であり、そこに愛着は生じえません。家があって、そこで暮らす人や家族がいて、その生活が愛おしいものであるとき、人はその器である家に愛着を持つ。その瞬間から「house」が「home」になるということではないでしょうか。

さて、きわめて私事で恐縮ですが、私の家は築17年になります。外壁はサイディング、屋根はスレート瓦、内装はビニールクロス…と、ごくごく普通の木造家屋です。極端なモダンデザインではありませんが、比較的シンプルなつくりの中でこだわったのが、構造材である木の柱や梁を見せるということでした。

木造軸組みの美しさを、全部隠してしまうのはもったいないという、デザイン面の欲求とは別に、密かにこの柱でどうしてもやっておきたいことがあったからです。
それは、当時3歳であった娘の成長を、この家に刻んでいく、すなわちあの唱歌「せいくらべ」を地で行きたかったわけです。
実際に1995年から2006年まで、この柱には、娘のその時々の身長が刻まれています。

1999年は、娘9歳、最も成長が早かったのでしょう、この年は、何本も線が刻まれています。
そして、2006年の娘16歳の誕生日の柱の傷が一番高いところにあります。

つまりこれ以降、娘の背は伸びていないということです。このようにこの柱は、娘の成長の記録となっているわけです。

建てた頃白木だった柱は、すっかり飴色になり、柱の傷と共に記された年月日は薄れてよく読めません。でもこれらの刻まれた日付を見ていると、「背を測るよ」と呼ぶと喜んでこの柱の前に立ち、少しでも高いところに印を付けてもらえるよう、一生懸命背筋を伸ばしていた幼い頃の娘の姿が、懐かしく想い出されます。
そして私たち家族は、この飴色で傷だらけの柱で支えられている我が家に、新築でまっさらな時よりもずっと愛着を感じているのです。

この部屋には、全部で4本の木の柱があります。次なる野望は、娘の子供たちの成長を、別の柱に刻んでいくことです。さらなる野望は、その娘や息子の成長を…です。
1本の柱に3面刻めますから、全部で12人までは大丈夫です。この4本の柱が全部傷だらけになるのは150年後くらいかな、と思うと、自分はもう間違いなくそこに居ないのに、ちょっと楽しみです。あるいは途中で、別の家族に住み継がれるかもしれません。その家族がこれらの柱の傷を見て、真似をしてくれたら、それも素敵、と思います。

拙宅の場合は、こんな小さな柱の傷たちが、ささやかな生活の喜びを生み、この喜びが家を通じて未来に受け継がれていく気がしています。ずっと永く住み継がれていくためには、例えばこういう愛着が必要なのかもしれません。
家への愛着は、豪華な設備や素材であったり、目立つためのデザインであったりするところではなく、そこで営まれる暮らしとバランスの取れたしつらえの中に生まれるのではないでしょうか。
例えば、春になると満開の桜が見られる窓であったり、いつも家族が集まる大きなテーブルだったり、そのテーブルの上にはコップに挿した一輪の花があったりするところに、愛着がわくのだと思います。それらに宿る愛着が、さらにそこでの暮らしを温かいものにし、受け継がれていく。”未来につながる家”とはそういうことなのではないでしょうか。